昭和40年8月21日 夜の御理解
信心は、目先目先のことでは分かりません。どこに深い御神意があるやら、神様の思いがどこまで深いやら分からんのです。ですから、ただ教祖の神様なり、または先輩なり、お徳を受けられた方達が言われたことを、その体験を、お話しを、成るほどそんなものかな、そうだとこう信じさせてらう素直な心を育てて行くしかないのです。今日は、善導寺のお月次祭でございましたから、おかげを頂きましたが、親先生のお説教の中に、鳥栖の、現在、鳥栖教会の先生がおられませんので、あちらのお弟子さんであります、(とくぶち?)という先生が、教会長代理で御用をなさっておられます。女の先生です。もう、おー、私共くらい年輩になられるかもしれませんですね。娘時代から熱心に、あのお父さんが、あちらの総代さんであって、ご自分は産婆さんを志望されておったんですけれども、その、大変な病気があった。癲癇をひく病気。癲癇病。私共もあの善導寺で、えー、ご大祭にみえてから2回位ひっくりかえられたのを私共も見たことがございますが、非常にひどい癲癇でした。
ところがあの、あちらにして、ご修行されるようになり、教師の資格をとられて、教会長ない鳥栖の教会を、まあ様々な信者との間にも、様々な信心のうえで、また様々な(寺?)を参るらしいんですけれども、そういう難儀な中をまあ一生懸命修行しておられるということでございましたが。んー、もう20年位前にですね、お父さんがその総代さんです。お父さんがそのどこかに自転車ででられよって、自転車から落ちられたんです。別に衝突したわけでもなんでもない。落ち様が悪かったんでそのまま亡くなられた。ね、自動車がひっくりかえったっちゃ命拾いするというのにね。自転車がひっくり返っただけでですね、亡くなられとる。ありゃもう金光様の信心させて頂きよって、しかも総代さんまでしよってから、まあどうしたとじゃろうかとこう、いうようにあるけれどもですね。最近は、あの、御霊様にご挨拶をされて、お父さんの御霊様を拝まれて、その都度都度おいさみがあるそうです。今日は、あのそういう意味でも(御理解?)久しぶりあげん忙しいちいうて。(とくぶち?)先生がですね、御霊をとおしてからお父さんの御霊を拝まれてですね、その都度都度においさみがある。そして有り難いことはですね、お父さんが亡くなられたその年を境にです、その癲癇がなくなっておるということです。してみると分からないですねというてその、神様のおかげといったようなものは分からない。その目先目先のことで、もう神様が言うこと聞いてくださった(なんなさったの?)のといったようなことじゃないて。問題はです、やはり教祖の神様がおっしゃるように、ね、こちらの(御用?)を一節でも受けてくりゃあ、一節でも無駄にはさせんとおっしゃる。だからこうやって信心のけいこをさせて頂いておるのがです、けして無駄ではないんだ、信心のけいこを、いわば徳積みをさせて頂いておるんだと言うです、思い込みのもとに、信心がなされて行く、そして、いうならば、今朝の御理解のようなですね、ところに、ポイントを、焦点をおいて、信心をさせていただいたら、いよいよ楽しい信心が出来るという事になるわけなんですね。どうぞ後から、今朝の御理解をもういっぺんみなさん頂いてごらんなさい。
先日、その(とくぶち?)先生が、あの、南久留米大祭のあとのご直会の席でです、そのみんな先生方と話しておられるんだそうですね。ほんとにその、まあ信者さん方、総代さん方、昔の総代さん方で、いわゆる先生の方が、いわば下なんですよね。だもんですからどうしてもその、信者との折り合いがとれんらしい。でそういうような難儀な問題を一生懸命神様に、御祈念し、おすがりさせて頂きよったら、眠られたんでしょうね、お夢とおっしゃったですから。御祈念中に眠られたら、そのー、お夢を頂かれた。と言うのはですね、ある人の解剖をしておられる。頭の解剖をしておる。そしたらある先生がですね、これは大脳だ、これは小脳だというように、脳を様々にその、解剖しておられてから、その先生が、その(とくぶち?)先生におっしゃっることがです、ね。「(とくぶち?)先生、ほら不可能っちいうのはどーこにもなかろうがの」とおっしゃったそうです。ね、椛目的な御理解ですね。ちょっとこう(半自問?)のようなことです。不可能と、頭の脳というのは、全然違うんですけれども、まあごろでしょうね。からそういう風に下さったんです。あんたが一生懸命今、そのお願いをしとる時に、それでもならんことはないというのではある。ね、今ひとつ私共がですね、その、いわばー、(無限力?)をもってござる神様に、打ち向かってですたい、真心一心を突き通せば、言わばならんということは無いのであり、不可能ということはないのである。どんなに解剖してみても、「ほら見てごらん、不可能っちいう脳はなかろうがの」ち。それを頂いて、そうだとこう勇気が出て、おかげを頂いておるというようなお話しを今日聞かせてもらった。じゃそこでなんです。ね、
確かにこの神様はね、不可能でない、不可能ってことはないです。ならこれは私の体験からしても言える。できんのはこっちの修行がたりんのです。こちらの方側がたりんのです。そこでですね、そこでならどういう信心をさせて頂いたらそういう(無限力?)の無限力の、その働きに私共のささやかな信心がです、合流することができるかと。神様という大きな(?)にです、私ともの一滴の値しないほどの私共でもです、その大海に流れんでも一滴にでもたりない私ともでも、一心になれば同じなんです、みんな。ね、だからいかにして神様と交流するか、いかにして神様と同じものになるかと、同質なものになるかということなんです。ね、神様が赤ならこっちも赤にならなん。神様が水なら私共も一粒の水にならせて頂かなければならん。そこに、様々な身を削り、心を削るという修行が必要なんです。ね。最近では、科学が発達してまいりましてから、まあ様々なことがもうあっという間にできる。機械力をもってすれば、昨日が、あの、合楽の方の基礎んところの、住宅の方のいわゆる事情自治だったらしいです。だからたくさんのとこの(にんぷさん?)がみえてから、そのこう(歌でもうとうてから?)なったら、たった2人だけだそうです。ね、もうそれこそ(?に)近いものをどす、どすんと石を入れたところをついていくんだそうですから、2人、2人(?)ばいいということです。ね、ほんというたらまあいっときしよったら、もう人間やらいらんごとなるかもしれません。ね、それでもこういうことを申しますね。最近あの、お餅をつくでも、機械でつくと。ほんと簡単に、あっというまにできてしまう。ところがそれが中々ひきが弱い。おいしゅうない。これでも、例えばその、ここへんの精米所でついたよりも、水車小屋の水車でぽっとんぽっとんついたその米の、方が味がよいと。このへんがなんとも言えんところですね。まあ、もーその餅つきとか、米つきとか、ね、(?)つきとかそんなものだけれども、信心ばかりはそうでなからにゃいかんのです。どんなに科学が進んだところでですね、ぼたんをぽっとおしゃあ、神様がぱっとおいさみを下さる。ね、もう拍手の変わりに何かほかのものがちょっとすると、ぱしぱしばしと音がなるごとなるとか、神様が戸をぱっと開きなさるとか。ね、それではいかんですもんね。まあこの頃はあなた、2、3日前の夕刊にのってましたですね。心臓でも、肝臓でもつくったもの、それを(犬?)に実験したところが、やっぱそれで結構間にあうち。ね、だからその人間(?)が必ずくるだろうと。恐ろしいことだって書いてありました。ね、医学万能、科学万能、ね、機械ときに、終止するような時代がまいりましても、信心ばかりはそんなわけにはいかんということ。ね、(又聞きに神様の心を?)きくちいうことはにはいかんちいうこと。ね、ダイヤルをこうまわしゃ神様がこうーと、こう世界中の氏子にものを言うて下さるといったようなわけにはいかんということ。ね、そこに、信心はです、やはり、教祖の昔にかえれとか。私ちょっと今、お道の新聞が今日きとりますが、見出しに、教祖にかえれということは、まず百姓になれということだというようなことを見出しに書いてあった。はあ、それで光昭ちゃん達はおかげ頂いとるなと思うんですね、その見出しだけで。百姓の勉強を学問的に、また実際に今勉強しているんだから。教祖にかえるということは、まず百姓をしなければ分からん。その見出しにどういうことを書いてあるかしらんけれど、確かにそうなんだ。教祖の神様は大地に取り組まれた、あの実意丁寧なご態度。ね、(米麦?)、または植物に対してです、どういう、うー、心の配り方をなさったかということ。やはり土をいじってみなけりゃその実感というのは分からないだろう、確かにそう思うですね。ボタンいっちょおしゃ、ちゃっと教祖の信心がぱっと分かるといったような時代が、これはいつの時代、いつまで待ってもそういうことはありえないのです。信心ばかりはだから、やはりドライな信心じゃいかん、どこまでもエレガントじゃなからないかんと私がいう。古風な信心させてもらわないかん。私は長男が、(?)じゃないですけども、親教会に修行してからここに帰ってくる時に、あんな格好して帰ってくる。善道寺町のものがこうやってなんじゃろかと思うて見るだろう。別に、まあ私ともごたるまあちったよかとば着とけばよかばってん、もうその、それこそ汗でよれよれになったような紋付袴をつけて、平気で椛目に帰ってくる。(?)たったそれだのことだけれども、誰でもでけんです、これは、ね。いわゆる(?)信心をしておるわけなんですよ。ね。そりゃあ例えば、いうならあの一日奉仕させて頂いた後ですから、(?)でもいいのです。ね、いうならみなさんがこうやってお話を頂かれるのでもです、○○教会あたりのように、ほとんどがそうですね、最近は。お話を頂くのでも(?)です。足を(?)です。うちわ使ってもいいんです。「みなさんどうぞ、お足を楽に」て先生がそうおっしゃるんですから。「どうぞおみあしを楽に」と。ばかんごたる、私からいわすんなら。わたしだんはハンカチでこうしよったっちゃお話すうごとなかです。なぜて神語りなのりだから。ね、神様のお話なのだから。暑いとか寒い位かんじんような気持ちでお話頂かにゃでけん。ね、それもできるだけ襟を正して、いただかにゃでけん。(ならここで?)修行させて頂く(?)あたりが言うんです。あんたは何もいうことはいらん。まず座るとば修行しなさいて。まず座ることからじゃ。というようなです、古風なことを申しますけれども、信心ばかりはその古風なところからおかげを頂かなければです、ね、神の声を聞くこともできなければです、神様のお心が第一分からないです。百姓になってみて、汗みどろになってみてです、土を耕してみなければです、本当のこと分からん、教祖のご信心は。ね、教祖のどこからああいうような素晴らしいものが生まれてきたかということはです、やっぱり分からん。それが本当のこと。ね。そういう信心をさせて頂いてそういう信心の基礎を本気で作らせて頂いて、今日から秋永先生の長男がここで修行させて頂くという。昨日、秋永先生がうちに帰ったげなら、頭ばすっかり(?このようにそって)きとるもん。お前どうしたとかち。僕は明日から修行にいくち。ね、ほんとにエレガントな考え方だと思うんですよ。でも油つけとってもチックをつけとってもかまわんのだけれどです、それじゃいかんというのじゃないです。けれども本気で(?)お広前でほんとに信心をいうなら(?)のに、修行させて頂くというのであるから、ね、まず発心させて頂いたその気持ちを頭を丸め、そこに心を使うておるということは私はありがたいなと今日はそう思うた。ね。お互いがです、信心ばかりはどんなに、いわば頭じゃなるほど信心のもう最先端を行きたいと思っております。お道の信心の。ね、だから(?)異端視されるところもありますけれども、その根本にあるものはです、もうどこまでもエレガントなもの。高度なもの。ね、やはり羽織袴つけて、ご結界畳この半畳に、暑かっても寒かってもです、ね。うちわ使うだんじゃない、(?)だんじゃない、やっぱここに座りぬかせて頂いて、(尋常?)奉仕させてもらう、難儀な氏子の御取次ぎ、助かりの御用というのは、こういう古風な格好でさせてもらわなければならない。そりぁ思います形だけのことじゃない、心のうえにもそうなんだ。ね、私はそういう信心をさせて頂いて、そういう信心の基礎、がしっかりできて、私はその鳥栖の(とくぶち?)先生が頂かれたようにです、「ほうら見てごらん、脳の中には不可能というのはなかろうがの」というようなです、おかげを頂かれるんだと黄思います。まあそれで一生懸命今修行をなさっているそうです。もう一生懸命修行させてもろうて、そうでもいかんなら、これは修行のしようが悪か、ポイントが間違っておる、焦点が違う、これは自分の真心が(たりんのだ、改まるところがたりん?)のだというようにです、(?)させて頂いて、神様とその思いがかようた時、ね、不可能なことはないというおかげが頂かれると私は信用させてもらう。ね、みなさんもそこんところを目指さなきゃ、そこんところを目指してのまた修行でなければならんと私は思うのです、おかげいただきました。
池尻てるか